モノミヤグラ

コンテンツ命な男のブログ

ROM専が「ネット論」とかいうのを語り出す。

1年ほど前から検索欄やUIがシンプルなnoteでブログを作っていたのだが、なんだかいろいろやらかしていて信用ならないので久々にはてなブログに戻って記事を書くことにした。

 

記事を振り返るとここから急に論文みたいな口調になっているが、個人的にはこちらの方が記事が書きやすいと感じたので、今後はこれで統一させてほしい。

 

ROM専が何か言ってみる

僕は相変わらず1日の大半をネットに費やしているのだが、ブログや動画サイトへのコメント、TwitterでのリプやDMは余程の事がない限りは使用しないようにしている。理由は面倒な論争に巻き込まれたり、変な奴に絡まれるのが怖いからだ。一応Twitterでつぶやくことはあるものの、こういった事態が自分のアカウントで起きたら鍵をかけるどころかつぶやくことも一切しなくなると思う。

ただ昨今、誹謗中傷へ目を光らせがちな世の中になっても尚刺々しい発言やトンデモ理論を繰り返すネット民を毎日目にしていると、頑なにROM専を貫いている自分にも「黙っちゃいられねぇ」みたいな謎の熱がみなぎってきたので、一度ここで自身の「ネット論」的なやつを書き連ねたいと思う。

 

 

自分の「欲」に忠実な者が勝つ

社会的に善いか悪いかは置いておくとして、これを読んでいるあなたにはどんな「欲」がありますか?

例えば「有名な人を追いたい」とか「これから大物になる人を応援する人になりたい」とか「悪い奴を叩く正義の味方になりたい」とか「沢山の支持を集めてる奴を引きずり下ろしたい」とか「誰かの悪口を言いたい」とか...。

正直な話、そういった自分の欲望に忠実になって、見たいものを見て言いたいことを言うってのがネットの一番の楽しみ方だと思う。(法律に引っかかるレベルでなければの話だが)

逆に言うと不本意なものを見ると楽しさは萎えてしまう。例えば「好きなアーティストの動画を見に行ったら、コメント欄で視聴者同士が喧嘩しているのを見てしまった」とか「悪い奴を叩き潰したいのに、そいつを全肯定するようなコメントを見てしまった」とか。さらにそのような気に食わない人に向かって「何でそんなこと言うの!?」とか「〇〇〇とか言ってる人たちさぁ...」といった発言をすればするほど気持ちとしては明確に嫌悪感や苛立ちが先行するようになる。

これだけ多様なサイトやコンテンツが立ち並び、多様な人種が何十億とうろついている現代のインターネットだ。自分の欲望とは正反対の欲望を持っている人と肩がぶつかることなんて日常茶飯事だろう。そんな時は不本意な攻撃や喧嘩をふっかけて相手の欲望や意見をボロクソに叩くなんてことはせずに、もっと自分の欲望が叶えられるサイトやコンテンツを探す時間に当てた方が有意義じゃないか。

 

欲望に忠実な攻撃

そうは言いつつも、対岸にいる人種と撃ち合ったり、攻撃をけしかけたりするネットが好きな人種も山ほどいるだろう。誹謗中傷で訴訟を起こせる世の中になったにも関わらず、だ。こういった人々を見ると、近頃芸能人や有識者が声高に、ネット民に対して「誹謗中傷をやめろ」と叫んでいるのは少し違うのではないかと思う。

僕は誹謗中傷している人に「誹謗中傷をやめろ」と言うよりは、誹謗中傷されている側の人に「とにかく身を守れ」と言いたい。先に言っておくが、ネットの在り方として(個人的に)一番理想的なのは誹謗中傷したい人誹謗中傷されても大丈夫な人誹謗中傷しない人誹謗中傷されたくない人が完全に住み分けされている状態であると考えている。

しかし、世の中には「誹謗中傷したい」という特殊な欲望を持っている割に、どんな理論や説明を解いても全く聞く耳は持たないという人種が一定層存在する。そういった人々は本来ブレーキの役割を果たす「倫理観」や「モラル」を持たず、「欲望」という燃料のみを積んで暴走することしかできないので、結果的に「温かい言葉や人に囲まれて過ごしたい」という欲望を持った人にまで手を出してしまう。とてもじゃないが、こういう人たちに「住み分けをしよう」とか言っても理解されない予感しかないだろう。

そしてもう一つのパターンは「正義を守るためなら誹謗中傷も厭わない」タイプ。そもそも「正義」と「悪」というのは様々な立場に立って慎重に検証した上で決めなければ「冤罪」とも言える結果にも繋がってしまうはずなのに、何故か「主観の正義」のみを武器にしている正義の味方モドキがネット上では非常に多い。これは「周囲が全く見えていない人」である事の裏付けにもなっており、性質的には上記の「誹謗中傷したい人」と似ている。大した理由もなく「流行りの正義」にくっついて主張する人もそう。これは単に味方が欲しいだけだったり、正義の味方になれた自分に酔っているだけの可能性が高い。

僕はこういった人々の存在こそが現在の「誹謗中傷問題」だと捉えている。

「誹謗中傷をやめろ」という意見は、ブレーキのない乗り物に乗っている人に対して「止まりなさい」と言っているようなもので、世の中を変えるにはいまひとつ効果が薄い気がする。でも何を言えば止まってくれるかもわからない。じゃあ言葉が伝わらないということは、行動で示すしかないということだ。

ここで強制的なブレーキの役割を果たすのが、そのコンテンツやサイトが持っているNGワード「ブロック」「通報」などの機能。綺麗なネットが好きな人や、自分のメンタルにいまひとつ自信が無い人はそういった機能に存分に頼ってほしい。そして緊急時に逃げ込めるように、自分の好きなコンテンツやサイトはなるべく増やしておくのも一つの手段。実際に僕はこれを繰り返して嫌な事を忘れつつネットを楽しんできた。少し虚しいネット世界だが、顔も声も届かないだけにインターネット全体が綺麗になることなんてまず有り得ないし、綺麗すぎるのはむしろ不健全だ。

(ってな話をマスコミや芸能人が「言葉が伝わる」人たちに拡散してくれたら最高なのだが...。)

 

赤の他人の思考を赤の他人が操作するのは至難の業

 名前は伏せるが、先日とあるVtuberが不適切な発言をし、活動再開にあたって30分ほどの謝罪配信を行った。当然そこに集まる視聴者はさまざまな欲を抱えて見に来るので、チャット欄は「そのVtuberを許す」コメント、「許さない」コメント、「とにかく犯罪者呼ばわりしたい」コメント、「そのVtuberのファンと他のVtuberファンの対立を煽りたい」コメント等で溢れかえった。しかし、自分とは違う欲や意見を持った人に対して不快感や苛立ちをあらわにする「そのコメント/人種を許さない」コメントも相当数寄せられており、チャット欄はかなりカオスな状況となっていた。

多分自分とは違う類のコメントに苛立ちを隠せない人は「自分と同じ類のコメントを全員がしてて当たり前」とか、「民度は高くて当たり前」とか、「全員が全肯定民を許さないのが当たり前」とか、周囲に対する当たり前、または規則みたいなものが譲れないでいるのではないだろうか。

残念な事ではあるが、いくら当たり前や規則を叫んでイライラを爆発させても数多のコメントを操作することは不可能だ。

考えてもみてほしい。自分とは全く違う意見を持っている赤の他人が駆け寄ってきて「この意見に賛成しろ」と言われても、「なんか偉そうな奴が来た」とか「そもそもコイツ何者?」といった感想しか湧いてこないだろう。相手の意見や思考を操作するには「自分が何者かという説明→自分の意見が正しいことの証明→相手の意見も聞く→頷きながらも上手く反論して自分の意見に持ち込む」くらいのプロセスは最低限必要なのではないか。それを何万人といる視聴者とやり合うのは無理がある。

そして問題を起こしたタレントや配信者が某匿名掲示板やまとめサイトで取り上げられた時に必ず寄せられる常套句は「この期に及んであいつを推してる信者は頭がおかしい」といったフレーズだ。ここでいう「まだ推してる信者」にとっては、そのタレントや配信者が起こした「問題の問題性」よりも「その人の人間性を見て推し続けているのかもしれないし、問題とは関係のない側面に価値を見出しているのかもしれない。要は「信者を批判する人」と「信者」の価値観が違うから「信者を批判する人」の主観では「信者」が頭のおかしい人に見えるのだ。またその逆も然りで、「信者を批判する人」がいくら筋の通った考えを持っていても「信者」にとっては、そいつはただの熱心なアンチにしか見えない。よく考えればこれは当たり前の現象だろう。

正直な話、僕自身も(僕の主観として)価値を見出せないコンテンツを推している人間は気持ち悪いと感じている節はある。しかし、わざわざそのコンテンツの名前を出して「あそこの信者はキモい!!」とネットで叫ぶ事自体に価値を見出していないのも事実。

2度目になるが、ネットでは自分の「欲」から外れないことが楽しむ鍵だ。そしてその「欲」が人によって違うのは当たり前。自分の居場所や言動を確認して、それが不本意であるなら一度頭を冷やした方がいいよ、という合図だろう。

 

そんなにカテゴライズして大丈夫なの?

最近のネットで感じることがもう1つある。変なカテゴライズが多すぎる。

直近なら無機質な髪形で顎が無くて眼鏡をした人間は「チー牛」、Vtuberにスパチャする人間は「カオナシ」、不祥事を起こした芸能人や配信者を許したら「全肯定民」、芸能人や配信者を少しでも批判したら「アンチ」、男と絡む女を許さない「ユニコーン」、何か心配したら「杞憂民」、その他にも「陰キャ」「陽キャ」「コミュ障」「指示厨」「ネタバレ厨」「エアプ」「スナイプ」「新参」「古参」「〇〇〇キッズ」「バチャ豚」「声豚」「ツイフェミ」「まんさん」などなど、挙げていけばキリがない。

何十億といるネット民を群集ごとに分けた方がコミュニケーションが取りやすいとか、検索しやすいというメリットはあるだろうけど、こういったカテゴリ名が良い意味で使われている場面よりも、中傷や罵倒ウザいもの都合が悪いものの呼称として使われている場面に出くわす方が多い気がする。

そうやって一度に多くの人々を敵に回して、キモい・ウザいと思う対象を増やしていったら、自分の生きる世界が狭くなるのではないかと想像してしまうことがある。「自分の行動範囲なんて狭くていい」と思っているならそれで構わないが、未来ある中高生がその場限りの感情でネガティブなカテゴライズを繰り返しているのなら少し心配。ましてや自分で勝手にしたカテゴライズで、相手の情報の1も知らないのに10を知った気になって仕舞いには正義の味方みたいな振る舞いをしていたら最悪。

というか元々こういうアングラなノリは匿名掲示板やまとめサイト等に留めておくべきで、SNSや動画サイトに持ち込まれて流行ってしまっている現状が大きな間違いなのだ。ネガティブカテゴライズ「ちゃんと人生が終わっている人」が、それに見合う場所でのみ行うべきものだと思う。「流行っているから」という薄っぺらい理由で大勢の人々が行っても誰も幸せにならないし何も解決しない。仮に大の大人がゲームの公式配信中にそういうカテゴリ名を発言したとしてもだ。

 

 

僕が最近気になったのはこのくらいだろうか。結局言いたかったのは「自分の欲から外れなければネットは楽しくなるよ」ってことと「人の悪口を言いたい人と、荒い口調で正義の味方をしている人は色々気を付けてね」ってこと。「ネット版正義の味方」みたいな項目でもう少し言いたかったことはあるが、長くなりそうなのでそれはまた後日...。

それよりも、自分の趣味にまつわる楽しい話をする記事をもっと増やしたい。他人や世の中に粘着してあーだこーだ言っていられる程余裕のある人間でもあるまいし。

 

以上、「なんか分析して偉そうなこと言ってみたい」欲を叶えた、チー牛陰キャコミュ障就活どん詰まり大学生野郎がお送りいたしました。